昨日の記事で、川中島バスのAirport Shuttle専用車のことについて触れましたが、松本電鉄にも松本BT~松本空港間の特急バス用に同デザインのバスが存在していました。
過去に撮影した画像の中から、3台のバスを見つけましたので、紹介いたします。


● 10400号車(いすゞ・川崎重工 K-CSA650 1984年式 川重ハイデッカーⅣ(4)型)



2台あった初代Airport Shutle専用車のうちの1台。貸切からの転用車で、行灯部分の種別・行先表示は方向幕ではなく、プレート状のものを固定してあるため、変換することができない。1996(平成8)年秋頃、松電本社営業所にて、許可をいただいた上で撮影させていただいたものです。
いすゞ車の縦2段ライトは、今のエルガに通じるデザインのような気が…(^^;



● 10401号車(いすゞ・川崎重工 K-CSA650 1984年式 川重ハイデッカーⅣ(4)型)



前記車両と連番の同型車。1996(平成8)年秋頃、松電本社営業所にて、許可をいただいた上で撮影させていただいたものです。



● 10912号車(日野・日野車体 P-RU638BB 1989年式 日野ブルーリボングランデッカー(GD))



3代目Airport Shuttle専用車。高速バス・松本~新宿線用車であった同車を改造したもの。当初は中央部トイレ付き36人乗り車であったが、転用改造に際し、トイレの撤去改造が行なわれた可能性があります。2000年4月頃、松電本社営業所にて、許可をいただいた上で撮影させていただいたものです。



このほかに、2代目としてふそうのエアロバス(88年式 P-MS725S)の改造車がいたのを記憶しているのですが、未撮影のままだったようです。
なお、エアロバスは、昨日紹介した川バスの41303号車の後継として、川バスでも41611号車が転用されています。


カナダのバンクーバーで開かれている冬季オリンピックもいよいよ大詰めですね。
こちらの長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を懐かしむ記事も、第11弾をもってひとまず最終回といたします。
今回はもう一度、バスに注目したいと思います。

最後は、観客、大会関係者、メディアの方々…など、さまざまな人を運んだシャトルバスの話題です。
大会期間中に何度も足を運んだわけではないので、撮影できたバスもそんなに多くは無いのですが、とにかく多くの車両が、シャトルバスとして使われていました。
その中でも、貸切車は基本的に各社ともに統一デザインの青帯を巻き、オリンピックのエンブレムとスポンサーの広告を掲出していました。一番多かったのは…、やはりアルピコ各社の車両でしょうか(^^;
各社ともに、原則として統一したデザインの行先案内表示をフロントと側面の出入口脇の窓に貼り、表示の色で用途を分けるなど、海外の方にも分かり易いように配慮した案内となっていたようです。


まずは、アルピコ各社の車両から。


(松電中央観光バス80352号車・日野P-RU638AA・1985年式 紫色の枠の「観客 SS:長野駅東口←→直行←→クロスカントリー会場/アルペン会場」の表示を掲出)



(松本電鉄10553号車・いすゞP-LV219S・1985年式 紫色の枠の「観客バス(?):白馬」の表示を掲出)




(松本電鉄10622号車・いすゞP-LV219S・1986年式 紫色の枠の「観客バス(?):白馬」の表示を掲出)
※ 昨年12月に松電から川バスに移籍し、45622号車として今も現役の車両です!



(万国旗がオリンピックムードを盛り上げていました。東口バス乗り場と新幹線ホームの間の自転車置場は、まだ完成していない頃でした。)


(川中島バス41479号車・日野P-RU637BA・1986年式 赤色の枠の「●●●●(←解読不能(^^;):長野駅東口←→アクアウィング←→エムウェーブ」の表示を掲出)



(川中島バス41481号車・日野P-RU637BA・1986年式 赤色の枠の「運営委員(?):長野駅東口←→アクアウィング←→昭和メディア村」の表示を掲出)



こちらははるばる南信からの応援、信南交通の貸切車です。


(信南交通1761号車・三菱KC-MS822P・1996年式 紫色の枠の「観客(?):●●市営駐車場(?←解読不能)←→直行←→フリースタイル会場」の表示を掲出)


他にも、千曲バスの車両も確認しているのですが、きちんと記録できませんでした。
また、青帯を巻かずに、前面に共通の「SHUTTLE BUS」のエプロンを付けたバスも走っていました。



(JRバス関東小諸支店 H648-87426号車・日産デP-RA53TE・1988年式 紫色の枠の「観客 SS:長野駅東口←→直行←→アクアウィング」の表示を掲出)


さらに遠方、山梨県からも応援車が。長野駅ではまず見られない富士急の車両です。


(富士急行(形式等不詳) 水色の枠の「●●●(←解読不能):オリンピックバスセンター長野駅東口→オリンピック村→オリンピックバスセンター」の表示を掲出)



この当時は、今のようにデジタルカメラで気軽にパシャパシャ撮れる時代ではなく、フィルムという非常に少ない枚数制限の範囲内でしか撮ることができませんでした。加えて、現在PCで加工できるデータに変換してあるものも限られているので、全てを紹介できたわけではありませんが、12年前に長野であったお祭りの雰囲気を少しでもお伝えできたとしたら、嬉しい限りです。

取り敢えず…このシリーズはおしまいです。






長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を懐かしむ記事の第10弾を、サクッとお届けします(^^;
今回は、前回の記事の最後に写真の隅でちょっとだけ触れた381系について、取り上げてみます。



(ただの「臨時」表示ではない381系。この正体は…)



長野オリンピックの期間中は、長野市内や会場周辺の宿泊施設に収容しきれないくらいの人が押し寄せることを想定し、数多くの夜行列車が臨時に運転されました。
〔JR東日本〕
 ・ 新宿~中央線・大糸線経由~白馬…急行「アルプス」(下りのみ・183/189系松本車9連)
 ・ 北長野~篠ノ井線・中央線経由~新宿…急行「アルプス」(上りのみ・189系長野車9連)
〔JR西日本〕
 ・ 姫路~東海道線・北陸線・大糸線経由~白馬…急行「白馬・栂池」(キハ181系7連)
 ・ 姫路~東海道線・北陸線・信越線経由~長野…急行「妙高・志賀」(485+583系14連)

そして、JR東海が波動用の381系を使用し、名古屋と白馬・長野方面を結んだ夜行急行列車が、次の列車でした。
 ・ 名古屋~中央線・大糸線経由~白馬…急行「つがいけ」(上りは臨時特急「しなの」)
 ・ 名古屋~中央線・篠ノ井線経由~長野…急行「きそ」(下りは臨時特急「しなの」)
 ・ 名古屋~中央線・篠ノ井線・信越線経由~妙高高原…急行「妙高・赤倉」(上りは昼行)

JR西日本及び東海の列車は、いずれもかつての急行列車の愛称として使われたものを(単体もしくは2つの組合せで)使用したのが特徴です。


いちばん上の写真の長野駅電留線に引上中の381系は、下りの特急「しなの71号」~上りの夜行急行「きそ」として使われた車両です。
そして、下の写真は妙高高原発名古屋行きの急行「妙高・赤倉」です。
いずれも、381系4連(クロ+モハ+モハ+クハ)を2本つないだ8両編成で走りました。



(383系の本格稼動後、波動用に4連に組み替えられた381系を2本繋いだ8連で運転された急行「妙高・赤倉」。8両中グリーン車が2両の豪華編成!?)



(愛称表示には、雪山と青空、そして五輪のマークに使われている5色のストライプが入った特別な「臨時」表示が外から貼られていました。)



(側面の愛称表示。なお、方向幕は常に「臨時」に固定されていました。)




一方、下りの夜行急行「つがいけ」~上りの特急「しなの72号」には、381系6連(クロ+モハ×4+クハ)が使われ、早朝の白馬に到着した車両は、夕方の折返しまで日中はずっと豊科駅の留置線に体を休めていました。



(こちらも愛称表示及び方向幕は、「しなの」や「つがいけ」の表示があるにもかかわらず、常に「臨時」に固定されたまま運転されていました。)


(特急「スーパーあずさ」との並び。)


しつこく(!?)、長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を懐かしむ記事の第9弾です(^^;
しばらくバスネタが続いたので、今回は鉄道からネタを拾ってみました。

今回紹介するのは、特にこれといって変わり映えのしない湘南色の115系です。
長野オリンピック期間中は、普通・快速列車も増発・増結をしていたため、長野支社の車両だけでは、不足を来していたものと思われます。
そこで、同じ115系を所有する高崎支社(新前橋電車区(当時))から、湘南色の115系4両編成が(少なくとも)2本借り入れられ、長野色の115系に混じって定期列車等で活躍していました。
(少なくとも…と表現したのは、偶々撮影に出向いた日に見られたのが2編成だったためで、確定した数ではありません。)

湘南色の115系は、長野支社所属の車両が塗装変更されて消滅した後も、飯田線から乗り入れてくる快速「みすず」に使われるJR東海の車両で見ることができましたが、こちらは“3両編成”、“冷房準備車に分散式クーラーによる冷房改造”、“極小型のJRマーク”等と仕様が異なるため、借入車とは外見からも区別することができました。



長野エリアに“復活”した湘南色の115系。



編成番号札は、「T1139」と読めます。



側面には、「直江津-新井-長野」のサボが表示されています。
長野~直江津間の普通列車の間合いに、新井~直江津間の区間列車にも入りますよ~という意味でしょうか??
この当時は、既に側面の方向幕も使用されていたように思うのですが、さすがにシマ車には「直江津」、「新井」なんていう表示は入っていないのでしょうね(^^;



「長野」の駅名板と湘南色の115系。ジャンパ栓が直江津方を向いているということは、長野支社の115系とは向きが逆(…というか、長野車が所定の向きと逆に線路に乗っけているだけですけどね(^^;)ということですね。



長野では(当時は)珍しい“奇数向きのクハ(クハ115型1100番台、1両目)”と“モハ115型1000番台(2両目)”。



こちらの編成番号札は、「T1141」のようです。



電留線に引き上げた湘南色の115系。隣にはこれまた懐かしい特急「みのり」の姿が。
さらに隣(左端)にいるのも、長野オリンピック期間中に運転された列車です。こちらはまた改めて触れたいと思います。



お馴染み!? 長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を懐かしむ記事の第8弾です(^^;

今回は、長野五輪の時期の前後に見られた長電バスのラッピングバスのうち、“五輪公式スポンサー以外の広告をまとったバス”を紹介します。
公式スポンサー以外…といっても、広告の柄は“冬”や“世界”を連想させるものであるため、やはり五輪を意識したものだったのではないかと思われます。




1104号車:スキーウェア等のメーカーの広告。公式スポンサーではないのですが、競技用のウェアの供給元だったりしないでしょうか。この車両は、“スーパー三ケタ号”が変身したものです。1997年12月 長野バスターミナルにて。
(※ この位置からの撮影には、許可をいただいています。)



1104号車:同じスキーウェア等のメーカーの広告ですが、五輪終了後に見たときは広告の絵柄が変わっていました。1998年5月 長野バスターミナルにて。
(※ この位置からの撮影には、許可をいただいています。)



1197号車:スキーウェア等のメーカーの広告の柄違いです。1998年2月 長野駅前にて。
後ろに続いているのは、公式スポンサーであるビールメーカーの垂れ幕を下げた41928号車(元都営・日野K-RE101)です。



1198号車:学習塾・教材販売会社の広告。長野五輪のイメージの一つに、“子供”があったことが影響した広告でしょうか。1998年2月 長野駅前にて。



1198号車:学習塾・教材販売会社の広告。一つ上の写真の非公式側です。こちらも五輪終了後しばらくの間は見ることができました。1998年5月 長野駅前にて。



1580号車:こちらもスキーウェア等のメーカーの広告の柄違い(ブランド指定の広告)です。広告の写真には、有名なスキー選手が登場しているそうなのですが、私には誰だかさっぱり…(^^;;; 1998年2月 長野駅前にて。


さて、あともう少し五輪関係ネタにお付き合いくだされば幸いです。



まだまだ続く、長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を懐かしむ記事の第7弾です(^^;

今回は、“五輪公式スポンサーの広告をまとったラッピングバス”の中から長電バスの車両を紹介します。




1200号車:複合機・複写機等のメーカーの広告。1998年2月 長野駅前にて。



1202号車:携帯電話会社の広告。社名ロゴが現在とは違うのも懐かしいです。
親会社の電話会社は公式スポンサーに名前を連ねていましたが、この会社の扱いは今一つ不明です。長野オリンピックのシンボルマークをデザインに使用していることから、公式広告と見て間違いないと思うのですが… 1998年2月 長野駅東口にて。



1202号車:一つ上の写真の非公式側です。1998年2月 長野駅前にて。



1261号車:飲料メーカーの広告。1998年2月 長野駅前にて。



1505号車:日用品販売会社の広告。川中島バスの広告車とは違ったデザインです。車両背後のコンビニエンスストアの看板が非現行タイプのものであることと、同じビルの2~3階にファストフード店が入っているのが懐かしいですね。1998年2月 長野駅東口にて。



1581号車:こちらも日用品販売会社の広告です。一つ上の1505号車と同じ柄と思われます。1998年2月 長野駅前にて。


長電バスの広告車は、いずれも当時の主力車種、自社発注の日野2つ目レインボーで統一されていたように記憶しています。
また、誤乗防止のためか、どのバスにも「長電バス」のプレートがフロントガラス越しに掲げられているのが見えます。

さて、次は長電バスの広告車のうち、番外編を紹介したいと思います(^^;


(夕べはタッチの差でメンテナンスタイム突入! 書いていた原稿は…orz)


長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を懐かしむ記事の第6弾です(^^;

前回に続き、“五輪公式スポンサーの広告をまとったラッピングバス”の川中島バス編・第2弾をお届けします。




42129号車、日用品販売会社の広告。バックの金融関係の会社(生保や証券など)の看板も、時代を感じさせる社名が並んでいました。1997年12月ごろ 末広町にて。



42133号車、飲料メーカーの広告。「サンマリン」行きという表示も今は見られませんね(※ 現在は、“サンマリーン”と伸ばしています。)。1998年2月ごろ 長野駅前にて。



42138号車、日用品販売会社の広告。1997年12月ごろ 長野バスターミナルにて。



42138号車、日用品販売会社の広告。一つ上の車両の非公式側です。1998年2月ごろ 長野駅前にて。



42139号車、飲料メーカーの広告。この会社の広告車は、把握できただけでも42066、42097、42133、そして42139号車と、4台もいました。1998年2月 長野駅前にて。



42141号車、クレジットカード会社の広告。この当時、宇木線(現・日赤線)の宇木行きは、長野バスターミナルの構内(4番乗り場…だったっけ?)を経由していました。1997年12月ごろ 長野バスターミナルにて。


次は、長電バスにいってみます(^^;


長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を(テキトーに)懐かしむ記事の第5弾です(^^;

長野オリンピックを翌年に控えた1997年秋頃、五輪公式スポンサーの広告をまとったラッピングバスが大量に登場しました。
私も全貌を把握しきれていないので、全部で何台いたとか、何社の広告があったとかは不明ですが、その数ざっと20台以上はいたのではないかと思われます。
その中から、撮影できたバスの姿を紹介したいと思います。
今回は、第1弾として川中島バスを取り上げます。




42016号車、複合機・複写機等のメーカーの広告。現在のような前面のみオリジナル色を残すのではなく、文字どおり全面広告車になっていました。後ろのバスも全面広告車。1997年12月ごろ 長野駅前。



42066号車、飲料メーカーの広告。同一デザインで、複数の車両が存在していました。1997年12月ごろ 長野駅前。



42067号車、日用品販売会社の広告。この会社は、異なるデザインの広告車を複数台展開していました。バックに見える歩道のアーケードも懐かしいです。1997年12月ごろ 長野駅前。



42097号車、飲料メーカーの広告。1997年12月ごろ 長野駅前。



42109号車、日用品販売会社の広告。42067号車とはデザイン違い。昼間に[10]系統・交通安全センター(現・運転免許センター)行きとは、臨時ダイヤでも敷かれていたのでしょうか?? 窓の隙間から、後方に[11]系統・北原経由篠ノ井駅行きの姿も見えます。この時見かけた唯一の三菱車による広告車です。1998年2月 長野駅前。


次は…、もう1回川中島バスで行きます(^^;


小海線、飯山線、そして大糸線…長野県の非電化区間で、かつて当たり前に活躍していたキハ52型。
この3月で、長野県内最後の活躍の場となっている大糸線(南小谷~糸魚川間)から姿を消すことになっているそうです。

飯山線から国鉄型気動車が消えたのは1997年9月末、北陸(長野)新幹線開業に伴うダイヤ改正でのことです。
翌10月からは、JR東日本になってから開発された新型気動車のキハ110系が投入され、乗り心地改善とスピードアップが図られました(大半は、1997年3月の秋田新幹線開業前まで、北上線経由の特急「秋田リレー号」に使われていた車両の改造車で賄われています。)。

ところが、長野五輪が始まり、それに伴う輸送力の増強が求められると、いったんは引退したはずのキハ52型が飯山線に復活したのです。
(尤も、新潟への転出が決まっていた車両ですので、それなりの整備はされており、中には1997年10月に全検を受けた車両なんていうのもいました。)
私が見たときも、長野~戸狩野沢温泉間の臨時列車や、定期列車の車両交換により、キハ52型のみの4両編成が一時の復活で活躍していました。

特にHMが付くとか、オリンピック期間中であることが分かる写真でもないのですが、“キハ52型のみの4両編成”は、現役時代にも飯山線ではそう滅多に見られなかったのではないでしょうか。



(キハ52 117ほか4両編成の飯山線列車。1998年2月 長野にて)






(逆側の先頭は、キハ52 135。いずれも飯山線から米坂線に転じ、1999年7月頃に廃車されたようです。)



(キハ52 117の「9-10 長総車所」の全検表示。“長総車所”も、過去のものですね。)



(番外編(^^; 新たに飯山線で活躍を始めたキハ110系気動車の中には、「眺望車 ふるさと」の愛称で窓の方を向いた座席をもつ車両が2両だけいました。時刻表にもその旨の注記があったのですが、いつの間にか消えてしまいましたね。(一般仕様に改装?))


長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を(勝手に)懐かしむ記事の第3弾です(^^;
今回はバスネタからです。

長野オリンピック輸送は、県内のバス会社が総出で当たった感じがある中で、やはり中心的存在となっていたのが松本電鉄を初めとするアルピコグループの各社でした。
松電バスの車両は、貸切車が大多数を占める中で、路線バス用の車両も少なからず各会場周辺に派遣されていました。方向幕を持つこれらの車両は、基本的に「ALPICO」を表示していたのですが、前年の1997年に淡路交通から転入したいすゞキュービック9台(1990年車(10020~)4台、1991年車(10170~)5台)は、転入当初からオリンピック輸送への充当を考えていたのか、特別な方向幕が用意されていました。
それがこちらです。






画像は、会期中の長野駅東口で撮影した10173号車で、方向幕には前後側面とも1998 長野オリンピック」の表示が出されています。この2週間のためだけに用意されたコマですが、2008年12月の系統番号が入った方向幕に交換されるまで、ひょっとしたら残っていたのではないかと思われます(^^;

余談ですが、当時は長野駅東口交差点を跨ぐ歩道橋が未完成で、このアングルから撮ってもABNの社屋がきれいに見通せます。外壁のロゴも…懐かしいですね。






こちらはバスの待機所の様子です。
真ん中に写っているのが10173号車です。会期中は、東口に集中するバスを捌くために、東口交差点~ABN前交差点間の巨大な中央分離帯部分がバス待機所になっていました。


長野冬季オリンピックの頃のバスや鉄道を(個人的に)懐かしむ記事の第2弾です。
前回の予告どおり、鉄道ネタから…

長野新幹線(開業当初は、下り列車については“長野新幹線”などと案内されていたのも懐かしい思い出です。いつの間にか“行”の文字が消えていましたね。)は、開業以来一貫してE2系車両の8両編成で運転されています。
(臨時で、軽井沢までE4系車両の8両編成が「Maxあさま」として入線したことはあります。)

しかし、長野五輪の時は、輸送力列車として注目された東北・上越新幹線用の12両編成の200系車両が、碓氷峠トンネルを通過できるよう抑速ブレーキを装備し、60Hz区間にも入線できるよう周波数切替装置を装備する改造を施され、長野新幹線を走りました(専用車両は1編成のみで、F80編成と呼ばれていました。)。
当時の時刻表を紐解くと、次のようなダイヤで走っていました。

 ・ あさま603号 東京 734→長野 911(2/7~22運転)
 ・ あさま602号 長野1119→東京1256(2/7~22運転)
 ・ あさま609号 東京1320→長野1500(2/7~22運転)
 ・ あさま608号 長野1624→上野1758(2/7~22運転)
 ・ あさま613号 東京1944→長野2125(2/7,9,10,12~14,16~21運転)


私も一度だけ、200系車両を見に長野駅に入場券で入ったことがあり、この時撮影したのが以下の画像です。



(12両分用意された長野駅のホーム一杯に止まる200系新幹線。この時は、普段は柵で閉鎖されている東京方4両分のホームまで使用されました。ただし、屋根は骨組みのままですが…(^^;)



「あさま 上野」行きの方向幕。新鮮だけど、どこか懐かしさを感じる表示です。)



(ホームの電光表示板にも、「12両編成」の表示が。この後発車するのは速達タイプの「あさま6号」。この頃は、停車駅の少ない列車は1桁の号数を付けられていました。)



(ホームの番線表示と「あさま 上野」行きの方向幕。)



(「ながの」駅の駅名標と、緑の新幹線。)



(後輩のE2系と並んで。)


オリンピックの後も、長野新幹線への入線が期待されたF80編成ですが、E2系には及ばない足が敬遠されたのか、全ての駅が12両対応していないことが原因か、五輪輸送終了後は通常の装備に戻されてしまったようで、結局再び入線することなく、またリニューアル改造を施されることも無く、2004年に引退しています。

この200系F80編成は、長野新幹線で営業運転を行なった唯一の国鉄型新幹線です。


さて、2月になって最初のネタは…

…というわけで、今月はいよいよ4年に一度の冬の祭典、「冬季オリンピック」がカナダのバンクーバーで開催されます。
日本選手の活躍が大いに期待されるところですが、振り返ること3大会前、12年前にはここ“NAGANO”でも熱い戦いが繰り広げられ、日本選手のメダルラッシュが続きました。

そんな冬季オリンピックの影の立役者…というと強引な結びつけかもしれませんが、選手やスタッフ、そして観客の輸送に、県内外のバス会社やJRなどが総出で当たりました。
というわけで(←やっぱり強引(^^;)、期間限定特集!?として、1998年2月の長野冬季オリンピックの期間中に撮影したバスや鉄道の姿を何回かに分けて紹介したいと思います。
今を遡ること12年ですから、車両も一世代前の車両がまだまだ現役の頃でした。
なお、当時は特にテーマを決めずに手当たり次第に撮っていた状態ですので(^^;、ネタにかなりの偏りがあるかもしれないことを、最初にお断りしておきますm(_ _)m


それでは早速…
記念すべき第一回目はこちら。





このバス、何処の会社のものかお分かりですか?

何処にも元ネタの面影が残っていないほど、全身(それこそ前面以外の窓もです)を完全にラッピングされたこのバス、実はアルピコグループの上越観光バス(当時・現在はアルピコハイランドバスに統合)の車両です。
(社番60909 長岡22か・909 日野セレガGJ U-RU3FTAB 1990年式 …セレガの最初期の車両です。その後、2000年発足のアルピコハイランドバスには引き継がれずに廃車されたものと思われます。)

用途は不明ですが(少なくとも、通常の選手・スタッフ・観客輸送とは区別されていたように思いますが…)、長野オリンピックの公式スポンサーのラッピングを同様に施されたバスが、何台かいたように記憶しています。
(清涼(炭酸?)飲料の真っ赤なバス、ビールメーカーの緑色のバス、そして、このバスの隣にも止まっていますが時計メーカーのバス…などです。それぞれ車両の元ネタは不明ですが、品川ナンバーの車両がいたり、はとバスの車両がいたり、県外からの応援が結構あったようです。バスの元会社名まで消去されているのは、五輪の会場施設内では「“スポンサー以外の製品に表示された製造社名・ロゴ”等さえマスキングするように」というお達しがあったようで、それに準じた扱いになっているためと思われます。)

撮影場所は長野駅東口、(今も再開発中ですが、)まだまだ再開発の途中であるという雰囲気の残る中で、多くのバスが集結していました。

さて、次は鉄道ネタにも触れてみたいと思います。





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