2010/09/28
【雑記帳】 四賀支所“内”のバス停スペース
一昨日までの松電バス・会田線の記事に関連した話題でもあるのですが、先日、松本市四賀地区の松電バス及び松本市営バスに関する資料収集のため、松本市四賀支所(旧・四賀村役場)を訪れました。
▲ 合併間際(?)に建てられたという旧四賀村役場庁舎。立派な建物でありながら、利用する住民の気配はほとんど無く、ひっそりとしている(^^; (もちろん、中では仕事をしている市役所の方たちがいるわけですが。) 敷地の手前には松電会田線及び市営バスのバス停が立っている。
▲ 敷地内に建てられた、「四賀村の足跡」という閉村記念の碑。
余談ですが、旧東筑摩郡四賀村は、2005(平成17)年4月1日に南安曇郡梓川村、安曇村及び奈川村とともに、隣接する松本市に編入する形で合併し、消滅しました。さらにその前身は、錦部村、中川村、会田村及び五常村という4つの村で、いわゆる“昭和の大合併”期の1955(昭和30年)4月1日に新設合併により、四賀村が誕生しました。四賀村は、四つの村が合併してできたところから命名された村名ですが、現在の住所には“四賀”の名称は使われておらず(例:東筑摩郡四賀村大字会田⇒松本市会田)、ここ四賀支所に残されているくらいかと思われます。
昭和の大合併による四賀村新設後も、各地域ごとの人やモノの流れは旧村のまま残っていたようで、例えば郵便では錦部地区は松本郵便局からの運送便に拠っており、会田・中川・五常地区は明科郵便局からの運送便(さらに大元は松本南郵便局)に拠っているなどという形式が、比較的最近まで残っていたようです。
(現在は、四賀地区全体で399-74**という郵便番号(明科局の399-71**から始まるグループの番号)を使っていますが、一昔前までは錦部地区のみ390-01という松本局の配下の番号を使っていました。)
路線バスも然りで、錦部地区の保福寺や青木峠に近い会吉からの路線バスは四賀村役場が置かれていた会田地区を通らずに松本へ向かっていましたし、中川地区の向原や小胡桃からの路線バス(保福寺からの路線ももちろんありましたが)は明科へ向かうというところは、旧四村の頃からの名残だったのでしょう。
(平成6年に四賀線の会吉までの路線が廃止されてからしばらくの間は、錦部地区の中心を経由しない松本発会田行きという系統が一時期運行されていましたが、その後廃止されています。)
さて、余談で逸れすぎましたが本題を…
この四賀支所敷地内には、ご覧のとおりバス停のスペースが設けられています。バス停のポールはありませんが、歩道部分の屋根を支える柱に、時刻表を掲出できるスペースが設けられています。
▲ 支所の敷地内、庁舎の前にはバス停として使えるスペースが設けられているが…
しかし、ここにはバス停名も時刻表も掲出されていません。(ひょっとしたら、これまで使用されたことさえ無いのではないでしょうか?)
松電バスはともかく、市営バスでさえ支所の敷地には入らず、前の通りを素通りして行きます。
▲ 四賀支所前の通りを通過する四賀地区の松本市営バス。
▲ 松電も市営も、敷地外に「四賀支所前(旧・役場前)」のバス停が設けられているだけで、そこには屋根もない。
▲ 「四賀支所前」バス停を別アングルから。松電・市営ともに時刻表は両方向がまとめて掲出されており、片側だけのバス停で双方向のバス停を兼用しているようである。
▲ 市営バスと松電バスの停留所ポール。市営の方は、旧四賀村営バス時代のものを使いまわしており、黄色いペンキで旧村章が塗りつぶされている。
▲ 少し離れたところには、「スクール 乗場」と書かれた別のポールが設置されている。こちらは松電旧仕様の赤いバス停。
10月1日(金)からは、松電バスの会田線が廃止され、四賀線が保福寺下町行きから四賀支所行きに行先・経路の変更が行なわれます。併せて、市営バスも経路等の変更が行なわれるようですが、折角のバス停スペースなのですから、10月1日からの新しい交通システムにおいては、是非とも支所の敷地内のバス停を活用してほしいところです。
(余談ばかり長くなってしまい、肝心の本題の方が上手くまとまらなくなってしまいました(^^;;;)
▲ 合併間際(?)に建てられたという旧四賀村役場庁舎。立派な建物でありながら、利用する住民の気配はほとんど無く、ひっそりとしている(^^; (もちろん、中では仕事をしている市役所の方たちがいるわけですが。) 敷地の手前には松電会田線及び市営バスのバス停が立っている。
▲ 敷地内に建てられた、「四賀村の足跡」という閉村記念の碑。
余談ですが、旧東筑摩郡四賀村は、2005(平成17)年4月1日に南安曇郡梓川村、安曇村及び奈川村とともに、隣接する松本市に編入する形で合併し、消滅しました。さらにその前身は、錦部村、中川村、会田村及び五常村という4つの村で、いわゆる“昭和の大合併”期の1955(昭和30年)4月1日に新設合併により、四賀村が誕生しました。四賀村は、四つの村が合併してできたところから命名された村名ですが、現在の住所には“四賀”の名称は使われておらず(例:東筑摩郡四賀村大字会田⇒松本市会田)、ここ四賀支所に残されているくらいかと思われます。
昭和の大合併による四賀村新設後も、各地域ごとの人やモノの流れは旧村のまま残っていたようで、例えば郵便では錦部地区は松本郵便局からの運送便に拠っており、会田・中川・五常地区は明科郵便局からの運送便(さらに大元は松本南郵便局)に拠っているなどという形式が、比較的最近まで残っていたようです。
(現在は、四賀地区全体で399-74**という郵便番号(明科局の399-71**から始まるグループの番号)を使っていますが、一昔前までは錦部地区のみ390-01という松本局の配下の番号を使っていました。)
路線バスも然りで、錦部地区の保福寺や青木峠に近い会吉からの路線バスは四賀村役場が置かれていた会田地区を通らずに松本へ向かっていましたし、中川地区の向原や小胡桃からの路線バス(保福寺からの路線ももちろんありましたが)は明科へ向かうというところは、旧四村の頃からの名残だったのでしょう。
(平成6年に四賀線の会吉までの路線が廃止されてからしばらくの間は、錦部地区の中心を経由しない松本発会田行きという系統が一時期運行されていましたが、その後廃止されています。)
さて、余談で逸れすぎましたが本題を…
この四賀支所敷地内には、ご覧のとおりバス停のスペースが設けられています。バス停のポールはありませんが、歩道部分の屋根を支える柱に、時刻表を掲出できるスペースが設けられています。
▲ 支所の敷地内、庁舎の前にはバス停として使えるスペースが設けられているが…
しかし、ここにはバス停名も時刻表も掲出されていません。(ひょっとしたら、これまで使用されたことさえ無いのではないでしょうか?)
松電バスはともかく、市営バスでさえ支所の敷地には入らず、前の通りを素通りして行きます。
▲ 四賀支所前の通りを通過する四賀地区の松本市営バス。
▲ 松電も市営も、敷地外に「四賀支所前(旧・役場前)」のバス停が設けられているだけで、そこには屋根もない。
▲ 「四賀支所前」バス停を別アングルから。松電・市営ともに時刻表は両方向がまとめて掲出されており、片側だけのバス停で双方向のバス停を兼用しているようである。
▲ 市営バスと松電バスの停留所ポール。市営の方は、旧四賀村営バス時代のものを使いまわしており、黄色いペンキで旧村章が塗りつぶされている。
▲ 少し離れたところには、「スクール 乗場」と書かれた別のポールが設置されている。こちらは松電旧仕様の赤いバス停。
10月1日(金)からは、松電バスの会田線が廃止され、四賀線が保福寺下町行きから四賀支所行きに行先・経路の変更が行なわれます。併せて、市営バスも経路等の変更が行なわれるようですが、折角のバス停スペースなのですから、10月1日からの新しい交通システムにおいては、是非とも支所の敷地内のバス停を活用してほしいところです。
(余談ばかり長くなってしまい、肝心の本題の方が上手くまとまらなくなってしまいました(^^;;;)